2015年12月25日金曜日

西村有二さんを偲ぶ 2015年12月23日

 今年を振り返ると、58日に西村製作所の社長の西村有二さんが突然亡くなられるという悲しいできごとがありました。享年68歳でした。西村さんとは古い付き合いで、追悼文を書くつもりで、写真を集めたりして、準備をしていたのですが、筆不精のため半年以上たってしまいました。ブログの順番がまわってきたのを良いきっかけとして、少し西村さんの思い出を書きたいと思います。

 西村さんと初めてお会いしたのは、私が愛知教育大に就職したばかりの頃、1981年だったと思います。愛知教育大には屋上に西村製作所製の40cm反射望遠鏡があり、望遠鏡の修理やメンテのために、西村さんがちょくちょく愛知教育大に来ておられました。当時は私はまだ26歳。西村さんも34歳くらい。西村製作所は京都に会社があり、私も京大から就職したばかり、ということで、親しくお話してくださいました。あるとき、望遠鏡が動かないので困り果てて、西村さんにすぐに電話しました、「とにかく困っています。すぐに来てくれませんか?」。西村さんは京都からはるばる車をぶっ飛ばして来てくださいました。しばらく屋上ドーム内の望遠鏡をチェックされておられた西村さんは、突然、「先生、コンセントが抜けてますやん!」コンセントをつなぐと望遠鏡は見事に動き出したのです。「いやー、大変助かりました。何せ私は理論家なもので、、、、」こんなことがあっても西村さんは不平の一言も言わず、その後も何度も愛知教育大に来て助けてくださいました。
 その後、1991年に私は国立天文台に移り、「ようこう」衛星によるスペース太陽観測にかかわるようになりましたので、仕事の面で西村さんと直接お話することはなかったかと思います。しかし、西村さんとは色んなところでお会いしていた記憶があります。それが天文学会なのか、京大なのか、国立天文台なのか、今となっては記憶はあやふやですが。いつもにこにこ、「柴田センセ、元気にやってますか?」という感じで親しく話かけてくださるのです。まるで先輩後輩の間柄のように。
実際、私が京大時代(その後も)お世話になった先生方は、みな西村さんとは親しい間柄でした。それもそのはず、現在花山天文台にある大陽館の70cmシーロスタット(1961年)は西村製作所製、飛騨天文台の太陽磁場活動望遠鏡(SMART)(2003年)も西村製作所製なのです。今、ペルーにあるフレア監視望遠鏡(FMT)(1992年に飛騨天文台に導入、2010年にペルー・イカ大学に移設)も、西村製作所製です。
実は、西村有二さんのお父さんの西村繁次郎さんは、花山天文台の旧職員だったことがあります(「花山天文台70年の歩み」p.68)。西村製作所の沿革を見ますと、
1926 (大正15) 国産第1号反射望遠鏡を製作、京都大学に納入。」
とあり、また、冨田良雄・久保田諄著「中村要と反射望遠鏡」p.148 には、
「(中村要は)1930年秋には神戸の射場のために口径19cm焦点距離224cmの対物レンズを製作。西村製作所の作った赤道儀に搭載した。」
とあります。レンズ・鏡磨きの伝説の名人、中村要(当時、花山天文台助手)が作ったレンズや鏡を用いて西村製作所が望遠鏡を完成させ、アマチュア天文家に普及していた様子がうかがわれます。実際、インターネットで調べてみると、
http://www.astrophotoclub.com/nakamurakaname/nakamurakaname.htm
「中村(要)は300面近い鏡を製作し、西村製作所や五藤光学研究所の望遠鏡に取り付けて安価で高性能の反射望遠鏡を広くアマチュアに普及させた功績は大きいと言えるだろう。1926年に西村製作所(西村繁次郎)は京都大学へ国産第1号反射望遠鏡を製作納入している。」(「中村要と反射望遠鏡」加藤保美氏)
とのことです。京大花山・飛騨天文台が西村製作所とともに発展し、さらにまた、アマチュア天文学の発祥の地と言われる花山天文台におけるアマチュア天文家の育成にも、西村製作所が大きな役割を果たしてきたことがわかります。
 こういう西村製作所と京大天文台の間の親密な歴史は、実は最近になって知ったのですが、西村有二さんが私にとってまるで先輩か兄のように親しくしてくださったのは、こういう歴史のおかげだったのだと思います。
 私が京大花山天文台の台長になってからも、飛騨天文台や花山天文台の望遠鏡がトラブルになったときは、いつもすぐに西村さんに電話して助けていただいていました。いつだったか、夜の10時頃、花山天文台での観望会後に本館ドームのスリットが閉まらなくなったときも、急いで西村さんに電話しましたら、真夜中にもかかわらず、すぐに関さんと一緒に花山天文台に来てくださり、応急処置をしてスリットを閉めてくださいました。スリットが閉まらないと、雨が降ったら望遠鏡は台無しになりますから、このときほど感謝したことはありません。
 近年も、京大天文台の関わるあらゆる事業、ペルー、サウジアラビア、飛騨、岡山、そしてNPO花山星空ネットワーク、野外コンサート、宇宙落語会に至るまで、西村有二さんからはいつも暖かいアドバイスやご支援をいただいていましたので、西村さんの急逝は、本当にショックでした。返す返すも残念でなりません。

ご冥福をお祈りします。


柴田 一成





20111220日、花山天文台忘年会の折。後列左から3人目が西村有二さん

2015年12月18日金曜日

マイヨール博士の言葉

  プロマネの栗田です。
  20151112日に京都賞のワークショップに参加してきました。今年の京都賞基礎科学部門の受賞者は初めて太陽型恒星のまわりを公転する系外惑星を発見したスイスの天文学者ミシェル·マイヨール(Michel Mayor)博士でした
  博士が惑星を検出した方法はドップラー法と呼ばれる方法で、惑星の引力によってゆすられる星の光のズレを検出するというものです。このズレとは、通り過ぎるサイレンの音色が変わるのと同じ原理で、惑星をもつ星が観測者に対して前後に動くとその変化が光の色の変化として現れるというものです。しかし、惑星は星に比べてとても軽いので、星の動きもとても小さいのです。博士らは秒速数十メートルの動きを検出できるような分光器(HARPS ELODIE)を仲間と開発しました。光の速さは秒速30万キロメートルですから、1千万分の1の変化を検出できるというとてつもない装置です。例えば、東京都の人口がひとり増えたか減ったかを感じることができるということです。すごいですね!






  この写真はワークショップの会場の廊下に博士の経歴を紹介するために飾られたもののうちの一枚です。美しい星空と博士らが実際に観測に使った望遠鏡が映っています。その写真によせられた言葉が印象的でしたので最後にそれを記したいと思います。

 「正直で親切、他者を尊重できる人を尊敬する。HARPSの開発が成功したのも、メンバー全員が前向きで互いに好意的だったからだ」