2019年1月10日木曜日

最後の太陽

18年前の2000年12月31日、20世紀最後の太陽を御前崎の海岸でぼっちで眺めたプロマネの栗田です。
 あらためまして、あけましておめでとうございます。僕は天邪鬼でして、初日の出よりも最後の太陽(夕日)を楽しむようにしています。初日の出は確かに最初の太陽ではありますが、翌日も日は昇ってきます。でも冒頭の太陽は100年間で最後の太陽の姿だと思うと感慨深いものがあります。
 
下の写真は平成30年12月31日に同じく御前崎で撮影した水平線に沈む太陽です。つまり平成30年最後の太陽です。よく見ると太陽の高度と同じ高さの右側にうっすらと縦に伸びる虹が現れています。これは幻日といって空気中の氷に太陽光が屈折・反射して現れるもので、秋から冬の午後に時々見られます。写真では太陽は雲に隠れていますが、このあと日没寸前にしっかりとお姿を見せてくれました。
お恥ずかしいことに僕はこれが平成最後の太陽だと思っていましたが、そうではないのでした(新元号が5/1に発表されても遡って平成31年1月1日は新元号の1月1日と公式的には施行されるのだと勘違いしていました)。といわけで平成最後の太陽を見るために是非4月30日の夕日をあらためて眺めたいと思います。

2018年12月20日木曜日

ド近眼

光学など担当の岩室です。

 今回は近視の話です。
私は実は「超」の付く近視で、日常生活はコンタクトとメガネが半々の生活です。母親も超近視でしたので、その遺伝のせいか小学校低学年の頃から年々視力が低下し、中学3年時には視力が 0.01 になりました。視力 1.0 は、5m 先にある視力検査板の下の方の "C" (ランドルト環というそうです)の 1.5mm のすきまを識別できる視力で、角度に換算すると1分角(60分の1°)となります。視力検査板の一番上にはその10倍サイズの "C" があり、これが見えると 0.1 なのですが、私はこれが見えた記憶がありません。これが見えないと、見えるところまで前進となります。50cm まで近づいたところでやっと一番上の識別ができ、これが視力 0.01 となります。ちなみに、1.0 用の "C" は 5cm まで近づかないと識別できません。

中学3年の時上記の状態となり、医者から「行くところまで行きましたので、これ以上近視にはならないでしょう」と診断され、メガネも究極のビン底メガネだったので、中学の最後にコンタクトレンズにしました。今思えば、なぜここで近視が止まると医者が予言できたのか非常に不思議ですが、昔は結構高価だったコンタクトをタイミングよく作ることができ、的確な診断だったと思います。この時作ったコンタクトは -16D という特注の凹レンズです。

メガネやコンタクトの強さを表す数字は、焦点距離の逆数です。すなわち、-16D のレンズは 16分の1m の焦点距離で 6.25cm の結像点を無限遠に遠ざける凹レンズとなります。ところで、視力 0.01 は上述の通り 1.0 の "C" が 5cm に近づかないと識別できないので、この値から逆算すると 1m÷5cm=20、-20D のレンズが
必要のように思われますが、視力 1.0 まで矯正すると目にきつすぎるので、若干弱めて作ったのだと思います。これでも、その頃は特注品でないと対応できない度数だったので、製作に1週間くらいかかっていました(最近はこのくらいまで標準品で準備されているようですが)。

ここまで読むと、私の悲惨な目の状況を訴えているかのように読めますが、実は私はこの視力に非常に満足しています。なぜなら、細かい作業を行うには最強の目だからです。上記の最も目が悪かった頃は、焦点距離 2cm 位まで近づいて見る事ができました。これは、カラーテレビの3原色の画素構造やミジンコの内部構造を容易に確認できる距離です。つまり、20cm くらいまでしか見る事の出来ない人よりも10倍拡大して見えるというわけです。今でこそ、老眼が進んで視力が "回復" してきましたが、まだ 5cm 位の距離で見る事ができます。下の写真は私が見る針の穴の様子を示していて、こんな感じで大きく拡大して見えますので、例えば、自分の髪の毛を5回連続して針の穴に通すことなどお易い御用です。

装置開発では細かい作業は頻繁に出てきます。直径 1mm の平凸レンズを向きを間違えないように穴に入れ、バネを切断して作った 1mm サイズのC リングで固定したり、細かいハンダ付けの出来具合を確認したり、接着剤を剥がした後の残りが無いことを確認したりなど、ルーペなしで0.1mm サイズを識別できる目は非常に役立っています。時計職人にも譲ってあげたいくらいです。時計職人は +16D の凸レンズのコンタクトを使えば、ルーペよりも遥かに広い視野で拡大像が得られますので、上手く使えば非常に作業効率が上がると思いますが、集中作業時は瞬きの回数が減りますので、その点コンタクトは不向きで(コンタクトは乾燥すると色々と不具合が起こります)、やはり裸眼が一番です。これを読んだ超近視の皆さん、特に若い人は細かい作業を行う仕事に
就くことを考えてみてはいかがでしょうか。

2018年11月30日金曜日

マルチメッセンジャー天文学事始:マルチメッセンジャー天文学って何ィ?


マルチメッセンジャー天文学。聞きなれない言葉かもしれない。宇宙を調べる手段として、隕石、惑星探査、宇宙線等を用いるアプローチもあるが、人類の歴史上、ほとんどは電磁波によるものであったと言ってよいだろう。特に、可視光、つまり目で見える光(可視光も電磁波の一種である)による研究は、数千年の歴史がある。1930年代頃から電波を用いた宇宙の探査が始まり、1960年代頃からは、赤外線やX線でも宇宙を探るようになってきた。その後、ガンマ線での観測も進み、今や、電波、赤外線、可視光、紫外線、X線、ガンマ線と、電磁波のほぼ全波長域での研究が行なわれている。

 近年、電磁波以外の宇宙を探る手段として、電気的に中性で透過力の高い素粒子であるニュートリノ(中性微子)と重力波が登場してきている。これらは、電磁波を含め、天体あるいは宇宙からの情報を伝達する役割を果たしていることから、伝達者(メッセンジャー)と呼ばれ、いろいろな伝達者という意味で、マルチメッセンジャーと呼ばれている。そして、これらを複合して宇宙を探る天文学をマルチメッセンジャー天文学と言うようになってきた。(今のところよい日本語訳がないので、カタカナで「訳」されている。)

 重力波については、米国のアドバンスド・ライゴ(advanced LIGO)という(2台の)重力波干渉計が2015914日(世界時)に人類史上初の重力波検出に成功し、質量が太陽の30倍程度のブラックホールの連星であることがわかった。重力波天文学の幕開けである。(1960年代にも重力波検出の報がいくつかあるが、現在のところそれを信じている人はいないと言ってよいだろう。また1970年代には、中性子星の連星を用いて間接的に重力波の検出に成功しているが、直接検出という意味では、初検出である。)その後、2017817日の検出では、電磁波による追究観測によって対応天体も同定され、約1億光年かなたの中性子星の連星の合体であったことがわかった。また、この合体によって、ある種の重い元素(金!やプラチナ!も)が作られたこともわかってきた。重力波天文台は、現在上記以外にヨーロッパのアドバンスド・バーゴ(advanced VIRGO)が稼動開始し、もうすぐ日本のカグラ(KAGRA)も参加予定であり、日常的に天体からの重力波を検出する時代になりつつある。

一方、電気的に中性の素粒子であるニュートリノ(中性微子)の観測も1960年代に始まり、太陽からのニュートリノを検出し始めた。1987年には、大マゼラン銀河で爆発した超新星からのニュートリノを、日本のカミオカンデ等が検出したことから、太陽以外の天体からのニュートリノも初めて検出され、本格的ニュートリノ天文学の幕開けとなった感があった。ただ、その後我々の近傍では超新星爆発もなく、太陽以外の天体からのニュートリノの検出はなかった。しかしここ数年の間に、南極にあるアイスキューブ(IceCube)が遠くの天体からやってくると思われる高いエネルギー(カミオカンデの9桁程度高いエネルギー)のニュートリノがいくつも検出されるようになってきた。2017922日(世界時)に検出されたニュートリノ(ニュートリノイベント)については、約40億光年の距離にあるブレーザーと呼ばれる活動銀河核の一種であることが(ほぼ)確実となった。この研究には日本の光赤外大学間連携のメンバーも本質的な寄与をしたのだけど、今日はその話はおいておく。アイスキューブの検出する高エネルギーニュートリノの起源天体探しは世界中で行なわれるようになり、いよいよ本格的なニュートリノ天文学の幕開けになるのではないかと期待される。

このように、21世紀に入って、伝統的な電磁波による天体の研究以外に、ニュートリノや重力波による研究が始まり、これまで人類が想像もしなかった宇宙や天体の姿が明らかになっていくのではないかと期待される。マルチメッセンジャー天文学の重要性が高まっていると考えられる。3.8m望遠鏡も、マルチメッセンジャー天文学推進の重要な望遠鏡になると期待されている。今回はマルチメッセンジャー天文学の一端として、私自身がかかわってきた、観測のドタバタ劇(突然出現し、かつ、これまでとは違う局面が多く、ドタバタ劇となってしまう・・・)の一部を紹介し、3.8m望遠鏡への期待を書こうと思ったのであるが、マルチメッセンジャー天文学とは何かということを書いているうちに紙幅も尽きたので、次回以降にいくつか紹介しようと思う。

太田 20181128



2018年11月16日金曜日

パチンスキー氏の思い出

 先月、久し振りにポーランドを訪れました。ブラックホールに関する国際会議に出席・講演するためにです。その研究会の主催者代表マレック・アブラモウィッツ氏は、基調講演の中である先達の名前をあげ、「自分の研究の原点はここにある」と切々と述べました。その人の名はボーダン・パチンスキー、ポーランド出身の天文学者です。長らく米国プリンストン大学教授として世界の天文学研究に大きな影響を与えておられましたが、惜しくも10年ほど前に病に倒れ、帰らぬ人となりました。

 ポーランドには何度も訪れたことがあります。一回目は1990年、どういう年だったか覚えている人がおられるでしょうか。この前年、ベルリンの壁が崩壊しました。自由化された直後のポーランド訪問でした。

 「チェコスロバキアやユーゴスラビア(当時)など、数ある東欧諸国の中で、なぜポーランドだけが天文学研究で突出しているのだろうか?」ふとこういう疑問をもって研究者に聴きました。結局、答えはよくわからなかったのですが、「コペルニクス依頼の伝統が根付いている」としかいいようがなさそうです。

 その中でパチンスキー氏の貢献は大きかったと言えます。パチンスキー氏は、恒星進化からガンマ線バースト(宇宙最大の爆発)、重力レンズによる暗黒物質探査、そして宇宙論に至るまで、様々な分野で伝説的な足跡を残した偉人であります。そのパチンスキー氏に私は何度か会ったことがあります。一度目は1987年ごろミュンヘンの研究所で。「私がボーダン・パチンスキーです」と、まだかけだし研究者の私に世紀の大学者がぴょこんと頭を下げられたのです。飾らない人なのです。「私が最初に得た職は、天文台のアシスタントオブザーバーだった」といった身の上話も伺いました。その後、プリンストン大学でもお会いしました。私がブラックホールの研究の話をすると、(昔、その分野で業績をあげていた)パチンスキー氏は、なんとも言えない、何十年も帰っていない故郷を懐かしむような表情で「今、私は、ノスタルジーを感じている」としみじみとおっしゃったことを昨日のことのように思い起こします。


 天文学をやっていてよかったと思うことがいくつかありますが、こうした海外の、天文学史に名前を残す、人格的にも素晴らしい方々にお会いできたことは私の宝の一つです。

(嶺重 慎)





2018年10月26日金曜日

モルワイデ図法、正距方位図法、そして RIP, CCD

 リーダの長田です。

 全天を平面に表すとき、天空での面積が正しく表され、しかもあんまりゆがんだように見えない、モルワイデ図法がよく使われるように思います。○○天体の分布だったり、宇宙背景放射の微少ゆらぎなどもそれで描かれていると思います。こういうように、人名を付けるのはその人へのリスペクトという意味で良いことだとは思いますが、これがガウスなどという人になると「そりゃあもちろん正規分布」「複素数平面」「光学の定義」「いやいや電磁気学」などと、さまざまな分野の業績のために、実に紛らわしいことになってしまいます。

 その点、「正距方位」と言えば、距離も正しいし方位も正しいのだなあと、スッキリとわかるという利点がありますね。「正距方位」という感じで表せば、日本を中心として口径3m以上の光赤外線望遠鏡がどっちの方角のどの距離にあるか、ということも良くわかります(写真参照)。


正距方位図法っぽく表した、口径3m以上の光赤外線望遠鏡の分布(赤丸)。
インドネシアの西チモールには星印をつけました!

 
 さて、「赤外線天文学」という講義で、観測装置に使う光や赤外線のセンサーについて調べたことがあります。Alan Hoffmanたちが2005年にExperimental Astronomyという学術誌に書いた論文の最後のページの締めくくりは次のような写真でした。「写真術(1830頃-1990)」、「撮像管(1955頃-1985頃)」とともに「皆に愛されたCCD(1980頃-????)」という墓標があって、RIPと書かれていました。ラテン語の Requiescant in pace か英語の Rest In Peace か、とにかく「安らかに眠りたまえ」ということですね。(彼らの論文の趣旨は、マイクロプロセッサの微小化が進み、その技術を使う CMOS イメージセンサが発達してきて、もはや CCD の時代ではなくなりつつある、とのことでした。その2000年代半ばから、今はさらに1桁もプロセッサ製作の線幅は微小になって来ています!)
CCD にしても、2次元撮像素子という意味だと思っている人が少なくなくて、そうじゃないよと言うことから「赤外線天文学」の講義はスタートします。撮像センサの世界では(あるいは、撮像センサの世界でも) MOS だの FPA だの SCA だの ROIC だのと、3文字やそこらの、意味がわかりにくい略号だらけです。

 さすがに4000年の歴史を持つ大帝国の作り出した表意文字、かつては遺物だとして「日本語はローマ字で表記しよう」という運動さえあったようですが、ただものではありません。








2018年10月18日木曜日

歴史の重み

 こんにちは。サイエンス・広報担当の野上です。

 今年4月にせいめい望遠鏡を擁する岡山天文台が発足しました。
正式名称は京都大学大学院理学研究科附属天文台岡山天文台です。
ずらずらと漢字が続いていますが、京都大学の中の、大学院理学研究科の附属施設である天文台の、その中の組織として岡山天文台がある、ということです。そして附属天文台というまとまりで見ると、京都府京都市にある花山天文台、岐阜県高山市にある飛騨天文台、理学研究科のある京大北部キャンパスにある天文台分室が既にあって、岡山天文台は一番新しい施設となります。一つの大学で現役で稼働している天文台を3つ持っているところは日本では京大だけで、多分世界的に見てもほとんどないと思われます。

 ちなみに東大は木曽観測所とアタカマ天文台の2つですね。広島大学は東広島天文台を持っていて、チベットの5100mの山の上にロボット望遠鏡を置くプロジェクトを進めています。東北大学はハワイに遠隔操作ができるハレアカラ60cm望遠鏡を持っていて、南極天文台プロジェクトがあります(主導されていた市川さんが昨年度で定年退職されて、今現在どうなっているのか私は知りません。)。北海道大学は光赤外線の1.6mピリカ望遠鏡と、11mの電波望遠鏡を持っていて、鹿児島大学は1mの光赤外線望遠鏡と6mの電波望遠鏡を持っています。他にも望遠鏡単位で見ると複数の望遠鏡を持っているところはあるかもしれませんし、大学の屋上に数十センチくらいの望遠鏡があるというところだと、かなり多いと思われます。

 京大の天文台に話を戻すと、今年飛騨天文台が設立50周年を迎えます。
11月16日にその記念式典が飛騨で行われます。現在、式典の準備が急ピッチで進められていて、その中の一つで50周年記念誌の作成があります。50年の沿革や歴代職員リスト、新聞記事・写真などの記録、研究成果報告、OB/OGや関係者からの寄稿、論文リストなどなどの内容となっており、なかなかのボリュームになりそうです。歴代の職員リストで、教員、技術職員、非常勤職員、研究員まで含むと、約100名となるようです。もちろん望遠鏡のユーザーとしてこられた方やメンテナンスで来られた方、そもそもの建設に関わられた方などまで含めると、ものすごい数になるでしょう。

 50年の間に、望遠鏡も増え(設置順に60cm反射望遠鏡(1968)、65cm屈折望遠鏡(1972)、ドームレス太陽望遠鏡(1979)、フレア監視望遠鏡(1992; 2010年にペルーに移設)、太陽地場活動望遠鏡(2003))、観測装置も発展してきました。
それにつれて観測手法や観測テーマも広がっていき、研究が深まっていることが、記念誌を見ることでよくわかります。歴史の重みがひしひしと感じられます。

 そして来年には花山天文台が設立90周年となります。ということは、岡山天文台が10周年を迎えた次の年に、花山天文台設立100周年という大きな節目を迎えることになります。これまでの附属天文台の長い歴史を受け継いで、そしてまた将来を見据えながら、岡山天文台を含めて新たに歴史となるものを積み重ねていく、、、こう考えていくと、現在の構成員の一人として、神妙な気持ちになります。精進しようと思います。

 翻って、私が所属している同じ理学研究科の宇宙物理学教室。こちらの歴史は1907年に物理学教室に新城新蔵教授が着任して新設された、物理学第四講座に始まります。そう、今年は111周年のゾロ目年。
これまで宇宙物理学教室ではこういう周年イベントが行われたことはないと思いますが、記念誌を作っておくとよさそう。でも実際にやるのは大変なので言い出さないでおきます。



岡山天文台の雄姿。スリットに見えるのはせいめい望遠鏡





2018年10月9日火曜日

日本のタイムカプセル

 子どものころ庭に埋めたタイムカプセルを2日後に開けたプロマネの栗田です。
 
 先日、大阪府門真市にあるパナソニックミュージアムに行ってきました。懐かしいパナソニックの家電などが展示されているのですが、もっとも目を引いたのは巨大なタイムカプセルでした。このタイムカプセルは大阪万博での松下館に展示され、松下電器のプロジェクトとして1971年1月20日に5000年後つまり6970年へ送るカプセルとして大阪城の地下に埋められました。ミュージアムでは試験の意味もあって4個作ったカプセルのうちの一つと収納品が展示されています。本物の2個は今も大阪城の地下にあるのですが、うち1つ(2号機)はミレニアムのたびに内部点検のために開封され、1号機は5000年後までダイレクトに送られます。
 2000年に2号機は一度大阪城から輸送され、点検作業を行ったのですが、カプセルにはプルトニウムの原子時計が備えられているため、プルトニウムの扱いが厳しい現在では大変な作業で陸上輸送されたそうです。

 ここで、5000年保存するということを想像してみると、とても夢が膨らみます。どうやって保存するのか、大阪城、それどころか日本語や日本は存続しているだろうか?。5000年後の人類への影響は?現代の技術があればカプセルは不要なのでは?いやいややっぱり価値があるよね?そもそも管理されているタイムカプセルはタイムカプセルとして良いのだろうか?などなど。

 なお、このタイムカプセルは埋設後、松下電器から文科省すなわち日本政府に譲渡され、その管理を国が行っています。つまり僕のタイムカプセルでもあるのです。