2015年4月6日月曜日

天文台長の柴田です

   先日の2015年1月30日、朝日放送の「こんなところに日本人」というTV番組で、ペルーで活躍中の石塚睦博士・イシツカ・ホセ博士親子が紹介されました。ご覧になられた方もおられると思います。今日は、この石塚博士親子と私(および最近の京大天文台)とのつながりについて、少しお話したいと思います。
 石塚先生は京大宇宙物理教室の大先輩で、50数年前、大学院生の時にコロナ観測所を建設するためにペルーに渡られました。3年で帰国するはずが、苦難の末30年の歳月をかけてコロナグラフ観測所をようやく完成させ、定常観測を始めたその矢先に、反政府ゲリラに観測所を爆破されるという悲劇的体験をなされた方です。当時は命までねらわれていたそうです。
それにもめげずペルーの天文学発展のために献身的な努力をされてこられました。私にとっては尊敬する大先輩です。その石塚先生が20043月に花山天文台に来られ(写真)、どんな古い望遠鏡や器械でも良いから、ペルーに寄付してくれませんか」とおっしゃっていたのです。そのときはすぐにペルーに寄付できるような望遠鏡や器械は見つからなかったのですが、石塚先生の言葉がずっと記憶の奥底にありました。
2006年のある日、ふと「飛騨天文台のフレア監視望遠鏡(Flare Monitor Telescope = FMT)をペルーに移設すれば、一石三鳥(石塚先生支援、ペルー支援、そして太陽観測の上でも最適)ではないか」、と思ったのです。その頃、飛騨天文台にSMART望遠鏡が完成し、太陽全面Hα像観測という点ではデータが重複するようになっていました。それで、FMTをどこか良い場所に移設する可能性を考えていたのです。すぐに石塚先生にFMTの移設先として「ペルーで引き受け可能性でしょうか?」とメールを出しました(2006730日)。すると翌日すぐに「お申し越しの件、何とか出来ると思います。これから研究所の所長に話します。」とポジティブな返事が来ました。
翌年2007年1月、早速、上野君と一緒にペルーを訪問し、石塚先生が勤務されておられるペルー地球物理学研究所のウッドマン所長と面会しました。また、FMT移設候補地のイカ大学を視察し、同大学の学長、理学部長にもご挨拶しました。いずれも皆さん、大歓迎、ということで、FMTのペルーへの移設計画がスタートしました。
20103月、FMTは無事、イカ大学太陽観測所に移設できました。最初は仮設棟住まいでしたが、2013年、イカ大学にFMTを収納する建物がようやく完成し、「ムツミ・イシツカ・コマキ太陽観測所」と命名されました。(コマキというのは、石塚睦先生の母上の姓で、スペイン語では両親の姓をつけるのが正式なのだそうです。)
以来、日本の夜間に発生したフレアが多数観測されています。ペルーの若者達を中心にデータ解析も進み、ようやく最初の論文が投稿される寸前まで来ています。
 ペルーでは、石塚先生はご高齢のため引退されましたが、幸い息子さんのイシツカ・ホセ博士が後を継がれ、ペルーに天文学の土台を築こうとしています。日本からも、上記FMT以外に、「ペルーに電波望遠鏡を支援する会」、「ペルーに60cm反射望遠鏡を贈る会」など支援の輪が広がっています。 私は現地に何度か行きましたが、ペルーの人々、とりわけ、若者たちの石塚先生への尊敬の念がいかに高いか、また、最先端の学問への憧れがいかに強いか、肌で感じ感動しました。日本から遠く離れた地球の裏側で、天文学のため、ペルーという発展途上国の学問の発展のため、一生を捧げた素晴らしい日本人がいるということを、私は大きな誇りに思います。このような人と人のつながりによる支援こそが、資源のない日本が世界に大きく貢献できる分野ではないかと思います。

 60cm反射望遠鏡については、西はりま天文台前台長の黒田武彦さんのリーダーシップの元、同天文台職員のみなさん、西村製作所のご支援のおかげで寄付が実現し、昨年秋に、正式にペルー・イカ大学に望遠鏡の引渡しがなされました。
現在、ご子息のイシツカ・ホセさんが、ペルー最初の電波望遠鏡の立ち上げに悪戦苦闘されています。「ペルーの電波望遠鏡を支援する会」のウェブサイトが以下にありますので、みなさまぜひご覧ください。そして、ぜひご支援ください。

 また京大とペルーの学術交流の支援(特にペルーの若者達を日本に招く留学資金や渡航費、FMT望遠鏡の維持運用経費の支援)については、天文台基金からご支援いただければ幸いです。

                          (2015年4月4日)



2004325
 石塚睦先生が花山天文台を訪問されたときの記念写真。
左より、柴田、石塚先生、奥様、イシツカ・ホセ博士(ご子息)

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