2018年11月16日金曜日

パチンスキー氏の思い出

 先月、久し振りにポーランドを訪れました。ブラックホールに関する国際会議に出席・講演するためにです。その研究会の主催者代表マレック・アブラモウィッツ氏は、基調講演の中である先達の名前をあげ、「自分の研究の原点はここにある」と切々と述べました。その人の名はボーダン・パチンスキー、ポーランド出身の天文学者です。長らく米国プリンストン大学教授として世界の天文学研究に大きな影響を与えておられましたが、惜しくも10年ほど前に病に倒れ、帰らぬ人となりました。

 ポーランドには何度も訪れたことがあります。一回目は1990年、どういう年だったか覚えている人がおられるでしょうか。この前年、ベルリンの壁が崩壊しました。自由化された直後のポーランド訪問でした。

 「チェコスロバキアやユーゴスラビア(当時)など、数ある東欧諸国の中で、なぜポーランドだけが天文学研究で突出しているのだろうか?」ふとこういう疑問をもって研究者に聴きました。結局、答えはよくわからなかったのですが、「コペルニクス依頼の伝統が根付いている」としかいいようがなさそうです。

 その中でパチンスキー氏の貢献は大きかったと言えます。パチンスキー氏は、恒星進化からガンマ線バースト(宇宙最大の爆発)、重力レンズによる暗黒物質探査、そして宇宙論に至るまで、様々な分野で伝説的な足跡を残した偉人であります。そのパチンスキー氏に私は何度か会ったことがあります。一度目は1987年ごろミュンヘンの研究所で。「私がボーダン・パチンスキーです」と、まだかけだし研究者の私に世紀の大学者がぴょこんと頭を下げられたのです。飾らない人なのです。「私が最初に得た職は、天文台のアシスタントオブザーバーだった」といった身の上話も伺いました。その後、プリンストン大学でもお会いしました。私がブラックホールの研究の話をすると、(昔、その分野で業績をあげていた)パチンスキー氏は、なんとも言えない、何十年も帰っていない故郷を懐かしむような表情で「今、私は、ノスタルジーを感じている」としみじみとおっしゃったことを昨日のことのように思い起こします。


 天文学をやっていてよかったと思うことがいくつかありますが、こうした海外の、天文学史に名前を残す、人格的にも素晴らしい方々にお会いできたことは私の宝の一つです。

(嶺重 慎)





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